水上 雄一朗 (ミナカミ ユウイチロウ)

オズペック設立時からのメンバー。前職では建設コンサルタント会社で人事・採用を担当していた。採用する側としての経験から、書類選考から面接、内定まで採用の流れを熟知する。何が合否を分けるのか、どうすれば合格の可能性が高まるのか、などの具体的なアドバイスは定評がある。

#_14175年前の教科書

私が小学2年生の頃、祖母から応接間の書棚に4世代前の高祖父が江戸時代後期に学んだ教科書があることを教えてもらいました。
手にとってみるとすべて漢字でした。小学2年生までに習う漢字は250字程度なので、当時は漢文とは知らず、読んでもなんのことが書いてあるかさっぱり分からなかったことを覚えています。

祖母が言うには、高祖父が実際に学んだ教科書はすべて保管してあるとのことで数十冊あり、すべて漢文でした。高祖父たちの時代は、当時の私の年齢(7~8歳)から学校に入学して15歳から20歳までに卒業したそうです。
今とかわらず、入学試験もあり、入学してからも次から次へと試験があり卒業試験もあったそうです。

※写真はイメージです

江戸時代は封建社会の構造に基づいて、士農工商の身分制が確立しており、特に武士と庶民は厳格に区別されていました。
教育についても基本的には武家教育(藩校)と庶民教育(寺小屋)がそれぞれ独自の形態をとって成立していました。

寺小屋は江戸時代中期から幕末期に全国に広く普及し明治5年以降、全国に小学校を開設することができたと言われています。

江戸時代の初期には一部の藩にしかなかった藩校ですが、江戸中期には急速に普及して二百数十校にまで増えます。地元熊本県内の藩校としては、時習館、再春館(熊本大学医学部の前身)、温知館、樹徳斎、武館、習教館、郷義館などがあったそうです。

新1000円札の北里柴三郎も細川藩時習館に明治2年から明治3年7月に廃校になるまで在籍してました。
廃藩置県後に廃止されましたが、学制発布後の中等・高等諸学校の直接または間接の母体となりました。

最後に

祖母が小学校2年のタイミングで高祖父の教科書があることを教えてもらったのは、当時はピンとこなかったのですが、江戸時代でも今と同じ小学から大学までの教育・教養を受けていたことを伝えたかったのでしょう。
就職してからも同じで学ぶことは必要であり、実務経験を生かして公的資格を取得することは、とても重要です。なぜなら、職場でのステップアップや転職する際に自分のスキルや知識を客観的に証明することができるからです。また、面接時に専門性や習得した知識をアピールできるため、採用担当者にスキルを理解しやすくなります。 ただ、資格ありきで転職活動をすると失敗・後悔するケースもありますので注意しましょう。

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